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【人生の総まとめ 帰国編】父の決断

   忘れもしない1987年の夏、この夏で筆者一家は大きく運命が変わったと言っても過言ではない。筆者一家はこの夏に中国から日本へ引き揚げた。

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  人の人生っていろんなシーンがあって、波瀾万丈である。筆者一家は、村で一番か二番ぐらいに貧しかった。分配された土地は痩せているし、収穫前によその農家に作物を刈られ盗られたり、事件レベルである。しかし中国の公安局は人命に関わるような案件でないと受け付けない。ともあれ、人間は生まれた場所、家庭によって運命が定まっているような気がする。どんなに貧しかっただろうと、どんなに理不尽な対応があろうと、どんなに差別され、侮辱され、見下され...

  逆転のカギは生まれた瞬間に決まる。その決定的となったのは、筆者の父が日本人の子だと言う事だった。日本人かどうかは実は体の一部に刻まれている。予防接種の傷に違いがある。

  父が日本人宣言したのは、父の養父が亡くなった時からで、関係者に問いの手紙がきっかけとなり、その手紙には、真実が綴られている。

詳細は【人生の総まとめ❶】にまとめている。

【人生の総まとめ❶】中朝国境の町 私のルーツ - 自分史 投資 AI 機械学習 ロボット

そして、日本人だとわかってもどうすれば良いかは分からなかった。

  しかし運命は逆らえない。進路示す貴人はいる。それは、血の繋がりこそないが、父の従兄弟の「陳さん」であった。陳さんは大学を出た秀才で都市で生活しているが、たまに帰郷して筆者のうちで食事する事はしばしばある。博識の陳さんから「「日本大使館」と言うのがあって、そこに手紙を出せば良い」と言う事だった。当時はインターネットもないし、情報は閉鎖されている。

  手紙を出す場合、普通は住所を書いて出すのだが、日本大使館の住所は知らなかったため、封書に「日本大使館」と書いて出したら、届いたと言うのが驚いた。そこからは、日本外務省から色々調査の書類などが届いて、無論中国語の翻訳が付いている。

  当時父はすでに40半ばであったため、この中国で中国人として一生終えるつもりでいた。父自身も日本人である事に違和感があった。中年になってからいきなり生まれた国と違う国籍になるのは、誰もが簡単に受け入れる事ではない。また、周りに反日感情があって、なおさらである。父は迷った、何故なら、言葉も習慣も異なる国で生きることが出来るだろうかと言う不安感と、生まれた本来である「祖国」日本で骨を埋めるのが、本来の人間のすべきことである。「落葉して根に帰る」と言うことわざがあるように、父はついに決断した。それは、父自身ではなく、筆者を含め、3人の子供の為、どんなことであっても、「祖国に帰る」と言う強い意志があっただろうと思う。

 栄華の安東時代、試練の文革時代、そして、不安になる反日感情に囲まれた環境で、日本人として生きる事はどれだけ耐えて行く事になろう。日本に来て初めて人間らしい生活を送る事を知った。これが文明の力である。無論、日本に帰ってから色々なエピソードは別の機会に紹介したい。

【4WDロボットカー製作】ドライバー駆動確認OK

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モーターの半田付とドライバーを取り付けた所で一旦、中断!

電池ボックスがあるが、スイッチをつけてオンオフ切り替えできるようにしたいのと、つける位置を考察したい。

Gpioでプログラム操作もチェックしたい。

 

 

所で、Pythonで、zip関数の存在を初めて知った。二つのリストいっぺんに処理できてすごいですね。素敵な言語❣️

 

Gpioリストと値リストをそれぞれ定義しておけば、一行で代入出来て、なんで素晴らしいでしょう。

 

import time

import Rpi.GPIO as GPIO

 

Pinlist = [p1, p2, p3,p4]

Forward = [1,0,1,0]

 

GPIO.setup(pinlist, GPIO.Out)

 

def MoveMotor(direction, tm):

    for pin, val in zip(Pinlist, Direction):

        Gpio.output(pin, Val)

     Time.sleep(tm)

GPIO.clearup

 

左転回および右転回は空回りしているので、

少しソフトウェアで調整する予定です。

方法として、前進、後退を左右に交互に少しずつと言う方法で確かめたいです。

あとは、タイヤがスカスカなので、少しマシなタイヤを交換すると言うのも検討したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

【人生の総まとめ❻】食料難の時代と新中国の改革開放

  中国も今の北朝鮮のように過去に食料難の時代があった。食料は配給制で、成人は1日8両、つまり400グラムである。ジャガイモだけだったり、皆が色々山菜取ったり、木の皮だったり、食べれるならなんでも取る時代でした。

  筆者の母は、飢えをしのぐため、脱穀済みの大豆の鞘を漁り、残っている生の大豆の豆をそのまま口にしたと言う。農村部は隠し穴作ったり、屋根裏に隠したり、いろんな工夫していた。そして夜静まり時間にこっそり食事作ったりしていた。

  外国のマスコミによると文革時代には、2000万人と言う餓死者が出て、食人までしてたと言う。残念ながら、そう言う話は聞かない。そもそも農村部は食料生産基地であるため、農民が食えないようだと国の根幹に関わる。

  筆者が5歳の頃、文革が終了すると下放した知識層の青年が都会へと戻った。ちなみに筆者の名は下放青年が付けた。非常に気に入った名前である。「楊明宇」と言う、今でもたくさんいるような名前であるが、生まれ順だと、筆者が知る限り、先行である。

  下放青年が住んでいた家を借金して購入したのが、同じく筆者が5歳の頃でした。ちなみに当時の公務員の月給は30元であるが、1500元の家を買った。10年分の年収に相当する。ここから返済の為、一家は極貧な生活へと変わって行く。公務員も場合はともかく、人民公社の農民には、1日の労働に対して、点数付けると言う制度で、最後に点数によって、食料を分けると言う。当然家族構成によって、全然異なる。労働力が1人で5人の家族を養うのは厳しい。文革終了後にこの制度は廃止され、土地の分配を行なった。家族単位で人数分の土地が与えられた。毎年、公的な買取で納める「公糧」と肥料など差し引くと1000元ぐらいの収入になる。当時には「万元戸」と言う言葉が流行った時代でした。

  鄧小平のお陰で、一家はなんとか、借金は返済したが、購入した家は、ぼろぼろになった。壁はネズミによって、穴が掘られ、厳しい冬には、隙間だらけの家の中でも寒い。

 

 

 

 

 

 

【人生の総まとめ❺】文化大革命

  1966年から1976年まで、毛沢東が逝去するまで文革が続いた。筆者は幸いこの文革の時代には、ほとんど影響を受けていない。

  中国の農村部と都会部では、身分差別は存在する。それは昔からで、文革の時の下放運動については、むしろこの差別を無くそうとしていた時期で、畑や田んぼなどほとんど関わることがない都会人には、文明を享受するより、地べたに張り付いて汗水流して働くイメージがあって、ある意味で平等にしようとしていた時代でもあった。現在進行系で北朝鮮の現状に近いかもしれない。

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  皆が同じ給料同じ釜の飯を食べる。これで幸せになれると信じていた時代でもあった。でも、実際には天災干ばつが遭って、この仕組みだと皆が食べれるような豊富な食べ物を作ることが出来なかった。働いてもそうでなくても、同じなので、働く気力が失せていた。これが社会主義のデメリットとして、資本主義(自由主義)から盛んに批判されるポイントとして挙げられた。

  それは無駄ではなかった。高度に発展し、成熟した社会には、命を守る仕組みが出来ている。セフティーネットこれが最低限の社会保障制度である。これも社会主義共産主義の思想から取り入れた制度である。

 筆者は、文革の終了時には、4歳であったため、直接の影響は、ほとんど影響がなかったが、間接的な影響はあった。

  一例として、父が通っていた高校の校長が学生と駆け落ちして、学生が卒業前に、学校が解散したと言う。この時代には、浮気した場合、誰かに密告されると吊るし上げられる時代である。浮気ものと言う看板をつけて、引き回しされる。

  就職に関しては、この時代では、高校を出ると仕事にありつく事が出来る珍しい時期で、「工作分配」制度があった。この制度は、日本の新卒採用に似ているが、日本の場合、全員が仕事ありつける事はないが、この時代の中国では、希望者全員に仕事を分配していた。当然、国有企業である。途中で仕事を放棄して辞めた場合は自己責任であるのは言うまでもない。

  残念ながら、父の学校は解散したが、特例として仕事の分配にありついたが、楊長春の干渉により、田舎の戻されて農民になった。

  もう一つの例として、楊長春が日本人の子供を養子にしたと言うことで、日本のスパイだとして、公安部に調査された事である。楊長春は人柄により無事放免となったが、やはり何か起きるか読めないため、声高に言えない時代で、本人は楊と言う苗字を後継者として父に継いでほしいため、死ぬ間際まで口を閉ざしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【人生の総まとめ❹】 人と人の距離が近すぎる

  1950年代から1960年代における中国の田舎の住宅事情の話しである。日本の江戸時代の長屋に相当する非常に狭い住宅事情がある。中国東北内陸部は基本的オンドル構造である。今風に言うと岩盤浴に近い構造で、料理する火が煙突までの通路の上に当たるのがオンドルで、この上が寝場所である。

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オンドル(筆者は14歳までずっとこの上に寝る生活していた。毎日が岩盤浴。)

  この時代の標準な一軒の家には、間取りが3つで、真ん中の間には出入口があって、そこに左右に分かれ、手前と奥にかまどがあり、4つのかまどが4つのオンドルになっており、オンドルの手前と奥でさらに分かれて、全部最大で8家族が入れると言う人間史上最大の密度である。それぞれの家族には間切として布一枚の垂れ幕である。個人情報やプライバシーと声高に叫ぶ今とは、到底考えられないのである。

  なお、この時代には、未だ電気がなく、テレビ、ラジオ、スマホもなく、暗かりである時代であるゆえ、むしろ自然に近い暮らしぶりである。人と人の距離が近すぎる。

  なお、酷寒の冬には、氷点下30度の外へトイレ行くとすぐに凍傷になるため、部屋の中に、お盆に用を足すのである。

  人間は面白いもので、この状況であるにもかかわらず、子供の数は今の時代より数倍である。人との距離感が子供の数と正比例するとと言っていい。少子化の原因は経済的な理由もあろう。結局、人との距離感で決まると思わざる得ない。

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かまど(筆者もこのようなかまどでご飯を炊くことができる)

 

 

  

  

 

 

  

【人生の総まとめ❸】日中国交回復

 時は流れ、中国は文化大革命の最中で、私家族にとって運命的な最も驚きのニュースは、日中国交回復である。田中角栄周恩来首相が握手した瞬間から運命が変わったと言って良い。この年に私は生を受けた。

 家の後ろの杏の木は、いつもほとんど実をあまり付けなかったが、今年だけは、多くの実をつけ、身籠もる母は、酸っぱさにも負けじとたくさん食べた。小雪が舞う頃、私は生まれた。この頃、病院ではなく、産婆を呼んで自宅で生まれるのが普通だった。

  楊長春は、生まれた私の目を見て、血は繋がっていないが、大いに喜んだ。これは天の授けものだと村中に自慢気に話した。

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  ここで生まれ村を少し紹介しよう。村は約1500人ほど小さな村、村の南には「碾盤川」通称は「大河」と、水田への用水路として「二道河」が流れ、北には、標高600mから800mまで低山が連なる。村の北側には、畑が多く、南側には水田が広がる。それぞれの戸建てには、小さな庭で野菜を作り、自給自足な生活を営む。

 

 

 

 

 

【人生の総まとめ❷】田舎暮らし

   

  ここは中国東北内陸部の田舎の村である。冬は氷点下20度まで下がるほど寒い。川が東から西へ流れて、珍しく稲作が盛んな村である。川の堆積で耕せる土地も広い。(地図の丸で囲んでいる辺り)

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  村のほぼど真ん中に楊夫婦が李一家と同じ屋根を構えて住んだ。楊長春は料理の腕前があるため、結婚式や大きい集まりがある時に料理の手伝いとして度々呼ばれる。楊は農作業はせず、大豆を潰して、大豆油や豆腐を作る工場を建てた。後々、国営商店の経理(責任者)までなった。村で一番出世したと言っても過言ではない。自分の記憶の中で、白いひげを生やし、いつも優しい老爺であった。

   〜糟糠の妻の逝去と恐ろしい後妻

  10年ほど経った頃に楊の妻が病気で亡くなった。後妻として李淑梅が一緒に生活するようになってから、状況が一転した。李は自分の連れ子のために楊に支援を求めた。そして、李の長男は大学まで入り、瀋陽市市内に住まいを構えることまでなっていた。父は後妻の李淑梅にいじめられ、虐げられていた。ちゃんとしたものは食べていないし、食べている時も嫌味言われる始末で、胃の病気の遠因はこの時からだと思う。楊長春は有力者であるが、女性の誘惑に弱い。そのため、やがって仕事にも精力的こなせなくなった。

  李淑梅は旨味だけを吸い、生活が困憊すると、瀋陽市の子供の所に身を寄せた。

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青丸囲んでいるのは村の住宅地

緑の線は川