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【人生の総まとめ❼】運命の歯車が動く

  1979年は筆者一家にとって、大きく運命の歯車が動いた。新しい家に住んでから2年後の事でした。この年には、楊長春が痴呆症にかかり、そして亡くなった。

 中国には昔から一つの風習がある。それは苗字を継ぐ子孫がいるという事がなりより重要である。苗字を継ぐ子供がいない場合、墓参りすら居なくなるというのは一番惨めで、だから、その時代には、7、8人兄弟がいるのは、一般的だった。当の楊長春も例外ではない。また、総経理までなられた事も尚更これを気にする。要は、楊長春が亡くならない限り、筆者一家は楊という苗字をずっと名乗らないといけない。

  楊が亡くなってから、一つの映画が上映された。それは、残留孤児が肉親探しの内容で、日本の様子も映された。豊かな生活風景が衝撃だった。過酷な田舎生活から抜け出すには、日本に帰るしかない。

  父は一通の手紙を闞力生に送った。自分が日本人であるか否か、日本人であるのなら、苗字は何か?という事を聞いた。残念ながら苗字は教えて貰えなかったが、日本人である事実はしっかりと手紙に書かれていた。その状況は以下の文章を参照してほしい。

【人生の総まとめ❶】中朝国境の町 私のルーツ - 自分史 投資 AI 機械学習 ロボット

 手紙の内容を読んだ父は手紙を破り捨てた。

 その少しあとに、都会に住んでいる陳おじさんが、年数回帰郷している。本来であれば、血の繋がりのある弟のうちに行くのだが、居心地が悪いため、いつもうちにやってきて、一緒に食事する。その時に相談してみた。流石大学まで出られた人の見識は広い。陳おじさんは、「日本大使館に手紙を書くといいよ」って教えてもらった。

 残念ながら、日本大使館の住所は分からなかったが、日本大使館だけ書いて手紙を送った。優秀な郵便配達員かどうかは分からないが、手紙が日本大使館に届いた。そこから、色々な調査の手紙のやり取りが始まって、1980年から1990年まで、残留孤児の肉親探しが一番盛んな時期に、父は1986年に、日本に初めて肉親探しに帰国した。翌年、1987年筆者一家は中国から引き揚げた。