【人生の総まとめ❾】ロバの💩がひっくり返る
水戸黄門でよく歌う台詞で、人生楽あり苦もあるさーって、我が人生は苦の連続であり、その中で楽を見出す事もある。その例えが、ロバの💩がひっくり返るという事です。
日本には、あまりロバやラバを見かける事は動物園以外にほとんどいないと言って良い。大陸続きのシルクロードが名残りで、ロバとラバについては、子供の頃よく見かけるし、放牧されている牛の大群にも遭遇する。ロディオみたいに暴れ牛ではないので、牛は基本的に大人しい。ロバには、必ずと言って、お化けと引き離すことはできない。ロバはグレーの体毛ゆえに、人間界と冥界の使いとして、そして八仙人の乗り物としても登場する。由緒ある動物である。ロバに目隠しさせて、石臼を引かせるのが持ってこいのである。機械化される前までの時代には大変重宝されて来た。
ロバの💩の話になるが、ロバの💩なって、ひっくり返る事はない。人生の奈落という言い方の転用である。普通の人ならば、だが、ひっくり返る日が来た。父が日本から日本製のテレビ📺を持ち帰った事で、普段は交際のない親戚が毎日のようにやって来る。隣人には、お前のうち、そんなに親戚がいるんのかい?って言われるほど、だいだいの親戚は、お金を借りに来るのである。
その中で、母の姉の旦那がやってきた。元々、出稼ぎ先の村で村長職に就いた人で、実力者である。だが、浮気の責任取らされて、故郷に戻ってきてからパッとしない。村長職にあるときには、いつも小馬鹿にされてきた。またお金を借りに行っても渋される事も多い。そんな実力者が、ロバの💩のうちにお金を借りに来るとは、情けない一言で言っても過言ではない。父がこの時に、「ロバの💩は一生ひっくり返る事はない、そう断言しましたよね!そのロバの💩のうちにやってくるというのは、どういうことか?」と逆に聞いた。流石になさげなく、怒ってうちから即座に出て行った。
人は、常に目先の利益しか見えていない。そんな因果応報があるとは思わないが、一番わかりやすい出来事が我が人生の中で忘れられない1幕であった。
常に将来を見据えよ。友は困った時こそが重要である。
ロバに乗っている仙人の絵
【人生の総まとめ❽ 帰国前夜】為せば成る「有志者事竟成」
筆者は、当時14歳である。中学2年生。
父が肉親探しから帰って、日本には、豊かな生活があるという事を始めて知った。それは、当時で珍しいカラーテレビを持ち帰ったのである。しかも日本製。
情報封鎖の時代、情報の暗黒時代とも言う当時では、ラジオから共産党の新聞からは、以下に資本主義の国で、国民がギリギリの生活である事多いに喧伝されていた。つまり、資本家が大悪党だと。唯一、共産主義が人々の幸せを導く。そう学校で先生が教室で声を上げる。
筆者は、父の肉親探しにより、日本が如何に豊かであるか、根底から教科書を否定する事象が見える。それでも、愛国主義、貧しくても、母親を嫌う子供は畜生と罵られる当時中国の風潮は、筆者はその頃から不信感を抱いた。それは、異議ありとなる。
大悪党である資本家が人々を豊かに導くという伝説は、改革解放という鄧小平の「先富論」になり、やがて、中国も赤い資本主義の国になって行く。
「井の蛙は海を知らず」という事は非常に怖いのである。人はどこに居ようか、真面目に勉強して、人の役に立つという事は変わらない。
当時の筆者は、根拠のない一つの恐怖感があった。それは、言語である。小学校から中学校までずっと習う国語は、日本に来たらもう一度、やり直さなければならないと思っていた。
あとでわかったが、日本語には、漢字がある、読みは違うが、意味が近いと思った。唯一の救いであった。それでも、筆者は、日本に来たあと、それなりに書き取りの練習したり、一所懸命に取り込んだ。周りがのほほんと過ごしている危機感のない学生には、相手をしなかった。そいつは、日本で生活基盤があって、自分には、自分の手で頑張らないと手に入れられないから。筆者はゼロスタートだけではなく、言葉のハンデもある。
そんな時に、「為せば成る」という素晴らしい言葉に出会った。志を持ってすれば、必ず成就するという強い押しがあり、筆者は常に座右の銘としても懐に収めていた。
現在の筆者は、言葉の限界は余り感じない。なぜなら、為せば成るという強い力が常に後押ししてくれている気がするからである。
サラリーマンよ 給料を上げるなら転職せよ
筆者はいよいよ 5度目の転職になる。
転職理由
① 自己都合(大学院進学)
③ 会社倒産
④ 自己都合(派遣先契約切れを機に)
⑤ 自己都合(持っているスキル活かしきれず)
今から見れば、自己評価が低く設定していたため、経験がないと転職難しいとか、年齢的に高いとか、色々周りにそういうマイナス思考に囲まれていたと思う。
捨てる神あって、拾う神あり。なので、面接を営業活動だと思えば、自己評価し、どのように自分を売り出すかを考え、試行錯誤しながら、頑張るしかない。相性が大事で合う合わない人間関係、仕事内容、バランスが大事だと思う。そのうち、必ず結果が付いてくる。もちろん努力は当たり前にやっている前提で。
【人生の総まとめ❼】運命の歯車が動く
1979年は筆者一家にとって、大きく運命の歯車が動いた。新しい家に住んでから2年後の事でした。この年には、楊長春が痴呆症にかかり、そして亡くなった。
中国には昔から一つの風習がある。それは苗字を継ぐ子孫がいるという事がなりより重要である。苗字を継ぐ子供がいない場合、墓参りすら居なくなるというのは一番惨めで、だから、その時代には、7、8人兄弟がいるのは、一般的だった。当の楊長春も例外ではない。また、総経理までなられた事も尚更これを気にする。要は、楊長春が亡くならない限り、筆者一家は楊という苗字をずっと名乗らないといけない。
楊が亡くなってから、一つの映画が上映された。それは、残留孤児が肉親探しの内容で、日本の様子も映された。豊かな生活風景が衝撃だった。過酷な田舎生活から抜け出すには、日本に帰るしかない。
父は一通の手紙を闞力生に送った。自分が日本人であるか否か、日本人であるのなら、苗字は何か?という事を聞いた。残念ながら苗字は教えて貰えなかったが、日本人である事実はしっかりと手紙に書かれていた。その状況は以下の文章を参照してほしい。
【人生の総まとめ❶】中朝国境の町 私のルーツ - 自分史 投資 AI 機械学習 ロボット
手紙の内容を読んだ父は手紙を破り捨てた。
その少しあとに、都会に住んでいる陳おじさんが、年数回帰郷している。本来であれば、血の繋がりのある弟のうちに行くのだが、居心地が悪いため、いつもうちにやってきて、一緒に食事する。その時に相談してみた。流石大学まで出られた人の見識は広い。陳おじさんは、「日本大使館に手紙を書くといいよ」って教えてもらった。
残念ながら、日本大使館の住所は分からなかったが、日本大使館だけ書いて手紙を送った。優秀な郵便配達員かどうかは分からないが、手紙が日本大使館に届いた。そこから、色々な調査の手紙のやり取りが始まって、1980年から1990年まで、残留孤児の肉親探しが一番盛んな時期に、父は1986年に、日本に初めて肉親探しに帰国した。翌年、1987年筆者一家は中国から引き揚げた。