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【人生の総まとめ❺】文化大革命

  1966年から1976年まで、毛沢東が逝去するまで文革が続いた。筆者は幸いこの文革の時代には、ほとんど影響を受けていない。

  中国の農村部と都会部では、身分差別は存在する。それは昔からで、文革の時の下放運動については、むしろこの差別を無くそうとしていた時期で、畑や田んぼなどほとんど関わることがない都会人には、文明を享受するより、地べたに張り付いて汗水流して働くイメージがあって、ある意味で平等にしようとしていた時代でもあった。現在進行系で北朝鮮の現状に近いかもしれない。

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  皆が同じ給料同じ釜の飯を食べる。これで幸せになれると信じていた時代でもあった。でも、実際には天災干ばつが遭って、この仕組みだと皆が食べれるような豊富な食べ物を作ることが出来なかった。働いてもそうでなくても、同じなので、働く気力が失せていた。これが社会主義のデメリットとして、資本主義(自由主義)から盛んに批判されるポイントとして挙げられた。

  それは無駄ではなかった。高度に発展し、成熟した社会には、命を守る仕組みが出来ている。セフティーネットこれが最低限の社会保障制度である。これも社会主義共産主義の思想から取り入れた制度である。

 筆者は、文革の終了時には、4歳であったため、直接の影響は、ほとんど影響がなかったが、間接的な影響はあった。

  一例として、父が通っていた高校の校長が学生と駆け落ちして、学生が卒業前に、学校が解散したと言う。この時代には、浮気した場合、誰かに密告されると吊るし上げられる時代である。浮気ものと言う看板をつけて、引き回しされる。

  就職に関しては、この時代では、高校を出ると仕事にありつく事が出来る珍しい時期で、「工作分配」制度があった。この制度は、日本の新卒採用に似ているが、日本の場合、全員が仕事ありつける事はないが、この時代の中国では、希望者全員に仕事を分配していた。当然、国有企業である。途中で仕事を放棄して辞めた場合は自己責任であるのは言うまでもない。

  残念ながら、父の学校は解散したが、特例として仕事の分配にありついたが、楊長春の干渉により、田舎の戻されて農民になった。

  もう一つの例として、楊長春が日本人の子供を養子にしたと言うことで、日本のスパイだとして、公安部に調査された事である。楊長春は人柄により無事放免となったが、やはり何か起きるか読めないため、声高に言えない時代で、本人は楊と言う苗字を後継者として父に継いでほしいため、死ぬ間際まで口を閉ざしていた。