自分史 投資 AI 機械学習 ロボット

趣味全般 色々書く予定

【人生の総まとめ❻】食料難の時代と新中国の改革開放

  中国も今の北朝鮮のように過去に食料難の時代があった。食料は配給制で、成人は1日8両、つまり400グラムである。ジャガイモだけだったり、皆が色々山菜取ったり、木の皮だったり、食べれるならなんでも取る時代でした。

  筆者の母は、飢えをしのぐため、脱穀済みの大豆の鞘を漁り、残っている生の大豆の豆をそのまま口にしたと言う。農村部は隠し穴作ったり、屋根裏に隠したり、いろんな工夫していた。そして夜静まり時間にこっそり食事作ったりしていた。

  外国のマスコミによると文革時代には、2000万人と言う餓死者が出て、食人までしてたと言う。残念ながら、そう言う話は聞かない。そもそも農村部は食料生産基地であるため、農民が食えないようだと国の根幹に関わる。

  筆者が5歳の頃、文革が終了すると下放した知識層の青年が都会へと戻った。ちなみに筆者の名は下放青年が付けた。非常に気に入った名前である。「楊明宇」と言う、今でもたくさんいるような名前であるが、生まれ順だと、筆者が知る限り、先行である。

  下放青年が住んでいた家を借金して購入したのが、同じく筆者が5歳の頃でした。ちなみに当時の公務員の月給は30元であるが、1500元の家を買った。10年分の年収に相当する。ここから返済の為、一家は極貧な生活へと変わって行く。公務員も場合はともかく、人民公社の農民には、1日の労働に対して、点数付けると言う制度で、最後に点数によって、食料を分けると言う。当然家族構成によって、全然異なる。労働力が1人で5人の家族を養うのは厳しい。文革終了後にこの制度は廃止され、土地の分配を行なった。家族単位で人数分の土地が与えられた。毎年、公的な買取で納める「公糧」と肥料など差し引くと1000元ぐらいの収入になる。当時には「万元戸」と言う言葉が流行った時代でした。

  鄧小平のお陰で、一家はなんとか、借金は返済したが、購入した家は、ぼろぼろになった。壁はネズミによって、穴が掘られ、厳しい冬には、隙間だらけの家の中でも寒い。